This is a Japanese translation of “Radical Empathy”
by Holden Karnofsky 2017年 2月16日
私たちの活動のテーマの一つは、多くの人からは助ける価値がないと思われている集団を助けようとすることです。
私たちはこれまでに、牧場における畜産動物のアニマルウェルフェアを向上させる大きなチャンスを見出しました。なぜなら、この問題に取り組もうとしている人があまりにも少ないからです。移民制度改革に取り組んだ際、すでに米国に住んでいる人々の賃金に移民がどのような影響を与えるかについては大きな議論が交わされていましたが、その改革が移民にどのような影響を与えるかについてはほとんど議論されませんでした。グローバルヘルスと開発に対する私たちの関心も、際立ったものと言えるでしょう。多くのアメリカ人は、外国の人々よりも自国の人々を非常に強く優先するため、多くは自分達のお金はアメリカ国外で使った方が大きなインパクトを生むことに賛成はするかもしれませんが、それでも国内への寄付を好みます[1]。
「思いやりや道徳的配慮に値するのは誰であるか」という問いは、私たちにとってきわめて重要なものです。これは、効果的な寄付を行うために最も重要な問いの一つだと思います。
残念ながら、私たちはこの問題に関して、従来の常識や直感を信用することはできないでしょう。歴史をさかのぼれば、当時の常識にはかなっていたものの今日では弁解の余地がないような非道な理由により、集団全体が追いやられ、虐待され、基本的人権を奪われた事例があまりにも多く存在します。その代わりに私たちが目指すのは、革新的な思いやり(Radical Empathy)です。つまり、思いやりの対象となるべきすべての存在に、たとえそれが普通ではなく、奇妙に思える場合でも、思いやりの輪を広げるよう努めるのです。
ここで選んだ用語の意味を明確にしておきます
- 「革新的な(Radical)」という表現は、「伝統的な」や「従来の」という言葉の反対語として意図されたものです。必ずしも、「極端な」「全てを含む」ということを意味しているわけではありません。全ての存在や全てのものに私たちは思いやりを示すわけではありません(そうしてしまえば、道徳について判断するための根拠が本質的になくなってしまいます)。ここでは、慣習に縛られることなく、最善の選択をするために努力することを指しています。
- 「思いやり(Empathy)」という表現は、その人の立場に立った自分を想像し、その人が配慮に値する経験をしていると認識する、という考え方を捉えることを意図しています。したがって、他者が感じていることを文字通りに感じることを指すわけではなく、『Against Empathy(邦訳:反共感論 )』で批判されている「共感」とは異なります(この本の中では、 “empathy” という用語の複数の意味を認めた上で、明確に一つの意味に焦点を当てています)。
常識や直感では不十分
『The Expanding Circle(拡大する輪)』においてピーター・シンガーは、歴史を通じて「利他主義の輪は家族や部族から国家や人種、そして、全人類へと広がっていった」と論じています(そして、「このプロセスはここで止まるべきでない」と付け加えています)[2]。今日の基準からすると、彼が述べている初期の事例は印象的です。
当初は、近隣のギリシア都市国家における市民の間でも、内部の人間と外部の人間ではっきりと区別されていた。したがって、紀元前5世紀中頃の墓石には、こう書かれているものがある。
「この記念碑は、非常に優れた人物の遺体の上に建てられている。メガラ出身のピティオンは、7人の男を殺し、そいつらの身体に7つに折り取った槍先を突き刺した... 3つのアテネ連隊を救ったこの男は、地上に住むすべての人間のうち、誰にも悲しみを与えることなく、皆の目の前で祝福されながら冥界に下りて行った。」
これは、アリストパネスがアテネ人の敵となるギリシア人の飢餓を滑稽に扱っていたことと全く一致する。そもそもこの飢餓は、アテネ人が自らもたらした荒廃に由来するものであった。(訳注:ギリシア都市の一つであるアテネが他のギリシア都市と敵対していたことを描写している。)しかし、プラトンによってこの道徳感は前進を遂げた。プラトンは、戦争においてギリシア人は他のギリシア人を奴隷にしたり、他のギリシア人の土地を荒らしたり、家を壊したりするべきではなく、これらのことはギリシア人でない人に対してのみ行うべきだと主張した。このような例はほぼ無限にある。古代アッシリアの王たちは、アッシリア人でない敵をいかに苦しめ、谷や山をその死体で埋め尽くしたかについて誇らしげに石に記録している。ローマ人は異邦人を、動物のように捕らえて奴隷にしたり、コロッセオで殺し合いをさせて観衆を楽しませたりする存在として見ていた。近代になり、ヨーロッパ人同士ではこのような扱いをしなくなったが、200年足らず前には、アフリカ人を倫理の枠から外れた存在としてみなし、捕獲して有用な仕事に使うべき資源とみなす人がいた。同様に、イギリスからの初期の原住民にとっては、オーストラリアの原住民も厄介な存在であり、面倒がある度に捕獲され、虐殺された。[3]
この引用の終わりでは、より最近の、身近な道徳の失敗へと話が移行しています。ここ数世紀の間、奴隷制度を含めた極端な人種差別や性差別、その他の偏見があからさまに、謝罪もなく行われ、しばしば社会的に最も尊敬されている人々によって広く受け入れられてきました。
今日の視点から見ると、これらは非常に恥ずべき行為であり、初期の奴隷制度廃止論者や初期のフェミニストなど、いち早くこれらを否定した人々は、並外れた善行を行ったように思われます。しかしこの当時に常識や直感を頼りにしても、これらの不道徳な行動を避け、有益な行動を見つけることには必ずしも繋がらなかったでしょう。
今日の規範はいくつかの点で優れているように思われます。例えば、人種差別が明確に擁護されることは少なくなりました(実践されることが少ないというわけではありませんが)。しかし、思いやりと道徳的配慮に値するのは誰であるか、という問題に関しては、今日の規範はまだ根本的に不十分である思います。その一つの兆しとなるのが、アメリカにおける移民をめぐる言説です。この言説では、明確な人種的偏見を避ける傾向にはありますが、しばしばナショナリズムを受け入れ、アメリカ国民でない人々(さらには、アメリカにいないけれどもアメリカにいたい人々)の権利や関心を排除し、軽視しています。
知性 vs. 感情
道徳的に残虐な行為は、道徳を抽象的に考え、思いやりに必要な感情の基礎を見失い、自分の行動が影響する人々から距離をおくことから生じがちだという意見を時々耳にします。
これはある場合には正しいですが、たいてい重要な誤りであると私は思います。
平和な生活を送っている人は、しばしば暴力に対して臆病になりますが、この臆病さは経験を積むことで驚くほど早く克服できるようです。歴史上、大勢の「一般的な」人々が、自分たちがその権利を認めていない人・動物に対して何気なく、さらには嬉々として直接的な残虐行為や暴力を行った例はいくらでもあります。[4]今日、 牧場で働く人々が動物を何気なく扱っているのを見ると(この恐ろしいビデオに見られるように)、もし自分自身で動物を殺さなければならなくなったとしたら、人々は肉を食べる量を大幅に減らすだろうという考えには大きな疑問符がつきます。私は、人々が自分自身の行動の結果を見て感じるかどうかが大切なのではないと思います。それよりも大切なのは、自分自身の行動が影響を及ぼす相手を道徳的配慮に値する同胞として認識できるかどうかです。
その一方で、論理的な推論を駆使して道徳的な結論を導き出し、後から振り返ると驚くほど先見の明があったという前例も少なくともあります。例えば、ジェレミ・ベンサムのウィキペディアを見てみましょう。彼は功利主義という分かりやすく定量的な論理に基づいた道徳を唱えたことで知られています。
ベンサムは、個人と経済の自由、政教分離、表現の自由、女性の平等な権利、離婚の権利、同性愛行為の非犯罪化などを提唱しました。(注:ベンサムが生きていたのは1747年から1832年までであり、これらの考え方が一般的になるずっと前である。)彼は、奴隷制の廃止、死刑制度の廃止、子どもを含む体罰の廃止を訴えました。また、動物の権利を早くから提唱していたことでも最近は知られています。
革新的な思いやりを目指して
思いやりや道徳的配慮に値するのは誰でしょうか?
この問いを誤る限り、私たちは残虐非道な選択をしてしまう危険性があります。逆に、もしこの問いを並外れたレベルで理解することができれば、私たちは桁外れの善を行うことができるかもしれません。
残念ながら、この問いを正しく理解することは必ずしも簡単なことではないと考えており、それどころか私たちが現在、正しく理解しているという自信は全くありません。それでも、最善の努力をする上で守ろうとしている原則がいくつかあります。
不確実性を認識すること。例えば私たちは、動物が私たちの道徳の枠組みの中でどのように位置づけられるべきかについてよくわかっていません。心の哲学に関する私自身の考察や推論では、これまでのところ、例えばニワトリが道徳的配慮に値するという考え方には反対する結論を示唆しているように思われます。そして、私の直感も、人間を桁外れに高く評価しています。しかし、多くの聡明な人々がこの考え方に反対していることを鑑みると、私の考察や直感は自信を持って信頼できるものとは思えません。また、もしニワトリが本当に道徳的配慮に値するのであれば、その虐待の量と程度は驚異的です。世界観の多様化という観点からも、ニワトリの福祉を大きく向上させることができるかもしれないチャンスを逃したくはありません。
この点に関する不確実性は、畜産動物のアニマルウェルフェアに大きなリソースを投入し、人間だけが道徳的に重要であることを暗示するような言葉を一般的に避ける努力をする十分な理由になると私は思います[5]。
とはいえ、全ての普通でない選択に不確実性を感じているわけではありません。地理的な違い、国籍の違い、人種の違いは、道徳的配慮に影響を及ぼすべきではないと確信しており、私たちの寄付はこのことを反映したものでなければなりません。
このトピックでは「変な」議論をすぐに否定してしまうことに細心の注意を払う。比較的少数ではありますが、昆虫や、今日のコンピューターで実行されるアルゴリズムの一部でさえ道徳的配慮に値すると主張する人がいます。このような視点は、表面的にはとても奇妙に見え、かなり急進的な意味合いを持つので、簡単にそして直感的に笑い飛ばすことができます。しかし上記のように、誰が道徳的配慮に値するかに関して普通でない視点を否定しようとする本能を強く疑うべきだと思うのです。そして、このような視点が最初に想定されていたよりも合理的であることが判明した場合、その代償はきっと高くつくでしょう。
今のところ、昆虫や今日のコンピュータで実行されるアルゴリズムが、道徳的配慮に値する有力な候補になるかに関しては個人的には半信半疑です。それでも、そういった考え方にも心を開いておくことは大切だと思います。
より深い分析を支援するアイディアを探る。ルーク・ミュールハウザーは現在、誰が道徳的配慮に値するかという問題(彼はこれを道徳的被行為者の問題(moral patienthood)と呼ぶ)に関する研究と議論の現状を調査しています[6]。もし、文献上のギャップや、より良い情報を得るための機会を見つけることができれば、さらなる研究への資金提供を推奨する可能性もあります。こうした研究は近い将来、畜産動物のアニマルウェルフェア分野における優先順位付けに影響を与えるかもしれません。たとえば、魚の扱い方を改善することに焦点を当てた研究をどれだけ優先するかに影響を与えるかもしれません。理想的なのは、道徳的患者性に関する私たちの見解が、できるだけ多くの深い考察、実証的研究、および信念のある議論に基づく広範な文献から導き出されていることでしょう。
「未開拓分野」だけにとらわれない。広く認知されている問題もいまだに大きな被害をもたらしている。私たちの活動では、畜産動物のアニマルウェルフェアや高度な人工知能による潜在的リスクなど、従来とは異なるチャリティに注目することがよくあります。これは、桁外れに大きな貢献をするチャンスは、これまであまり顧みられることのなかった分野にこそあると考えているからです。しかし私たちの目標は、できる限り良いことをすることであり、現在の社会で最も「革新的な」活動を探し出し、支援することではありません。例えばアメリカの刑事司法制度など、より広く認知されている分野において害悪に立ち向かう大きなチャンスがあれば、私たちはそのチャンスを積極的に活用します。
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例えば、Giving USAのデータによれば、2015年のアメリカの寄付のうち、国際援助に焦点を当てたものは約4%に過ぎません。
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pp.120。
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pp.112-113。
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The Better Angels of Our Nature の第1章に多くの例が掲載されています。︎
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余談ですが、このような表現を避けることはしばしば困難です。一般に道徳的配慮に値する存在を指す場合、私たちはそのような存在が人間であるかどうかを事前に判断せずに、またカジュアルな読者にあまり気を遣わせすぎないように、「人(persons)」という言葉を使います。より正確には、「道徳的被行為者(moral patients)」です。︎
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